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地域医療のカルテ
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災害時の医療連携 これまで築かれてきたこと これから備えるべきこと
災害時の医療連携 これまで築かれてきたこと これから備えるべきこと
地域医療のカルテ 2024.05.28

災害時の医療連携 これまで築かれてきたこと これから備えるべきこと

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2024年幕開けの日に起きてしまった大地震は、災害というものがいついかなるときにも起きうることを改めて感じさせた。私たちの地域がもしまた次の災害に襲われたとき、地域の医療はその機能をどう維持できるだろうか。そのために備えるべきこととはなんだろうか。今回は災害時の医療連携と、災害時に備えた事業継続計画(Business Continuity Plan = BCP )の必要性について、経験豊富なスペシャリスト3人に話を聞いた。

3.11から始まった 、「ライン」をつくって継続支援する仕組み

石井:東日本大震災のとき石巻赤十字病院にいた私は、宮城県災害医療コーディネーターとして石巻医療圏の医療救護活動を統括しました。全国からのべ955にものぼる支援救護チームが駆けつけてくれましたが、五月雨式に集まってくるチームを調整するのは非常に困難なものでした。当時の東北大学病院院長だった里見進先生からアドバイスをいただき、応援に来てくれた山内先生と一緒に作ったのが「エリア・ライン制」という仕組みです。医療圏をエリア化し、ひとつの支援医療機関から派遣されてくる1次隊、2次隊、3次隊を「ライン」と呼ぶことにして、そのラインによってひとつのエリアを継続的に支援してもらうやり方が始まりました。これによって支援チームの調整作業が軽減され、さらには避難者が同じ医療者から診療を一定期間受けることができるようになったり、支援医療機関とエリアに信頼関係が生まれたり、ということに繋がりました。この「ライン」という仕組みは現在においても災害医療の標準になっています。
山内先生、当時の宮城の医療連携は、どうだったのでしょう。

山内:宮城県でなにかを主体的に調整したり、連携したりという記憶はあまりありません。当時はEMISもありませんでしたから、情報も取れませんでしたし…。被災地の病院から要望が来ればできる限りその個別の要望に頑張って応えるというような感じで、医療連携の仕組みもほとんどない状態だったと思います。

石井:石巻赤十字病院には、東北大学病院から応援の医師たちが来てくれました。しかし、瓦礫などで石巻市内の道路状況が劣悪なのに大型バスで病院に乗り付け、また災害現場は危険なのに救護服ではなく白衣姿の支援医師たちがぞろぞろと降りてきました。その姿に私たちは激怒し大人げなく「帰って下さい」と追い返してしまいました。引率していたのは現在の東北大学病院院長である張替秀郎先生でした。普通だったら「せっかく来てやったのにその態度は何だ」と怒りそうなものでしたが、張替先生は全く怒らず、バスから降りた医師たちがいる場所から離れたところに私たちを呼び、話を聞いてくださったんです。白衣姿では危険だし、大型バスでは市内の避難所を回れないことをお伝えしました。大学病院に戻った張替先生からその報告を受けた里見先生は支援の方針を一転させ、被災地に支援を送り込むことをやめて「被災地の病院を疲弊させるな」と被災地の患者を受け入れることにします。しかも「全員が総合医となってすべての患者を診るように」と大学病院全体に提案されました。それにより東北大学病院は1ヶ月ほどの間に311人の患者を石巻赤十字病院だけでなく、沿岸部の様々な病院から引き受けたのです。後になってその話を伝え聞いた私は、石巻の私たちが生意気な態度を取ってしまったにもかかわらず、非常に懐の深い対応をしてくださったとことに「なんて大人なんだ」と思いました。大学病院と関連病院との医療連携はこの時からすでにあったとも言えるかと思います。

支援を受けることが2次災害になりうるという教訓を生かして

佐々木:震災時、私は茨城県の高萩協同病院の外科医でした。元々看護師が足りないなど医療従事者不足が問題で、平時から医療が回りにくい状況でした。地震・津波によって周辺の病院の多くが被災し、かつ福島県側からの避難者の流入があって医療人口が急増しました。24時間、昼も夜も患者さんがひっきりなしという状況の中でスタッフが疲弊していきました。一体どこにSOSを出せばいいのか、誰が助けてくれるのか、そういう仕組みがあるのかもわからない状態です。この時期のDMATも現在のように病院支援をする体制ではありませんでした。

石井:実は石巻においても、孤立奮闘していた病院が少なからずあったことを後から知りました。救護チームとして病院を回ることをしなかったのは大きな反省となりました。

佐々木:私がこの時にいちばんの課題と感じたのは、支援の受け入れ、つまり受援のあり方です。当時は現在のように「受援者に負担をかけないように寄り添うような支援をする」という姿勢や意識が支援者側にありませんでした。派遣体制に計画性のない、職種・人数も異なる医療支援者がてんでんばらばらにやって来るわけです。支援者には「手伝って欲しい業務」や院内の状況、診療手順などを説明する必要がありますが、それには相応の時間・労力を要します。半日近くもかけて説明をしても、その数時間後には「お疲れ様」と言って帰ってしまう、というようなことが毎日のように繰り返され、「支援者が来ることそのものが災害だ」とすら感じました。この苦しい経験が、後に私が災害医療に従事するきっかけとなりました。自分が経験したことを伝えることで、同じような苦労をする医療従事者が少しでも減ってほしい、と思ったのです。
そもそも受援とは、支援を受けることによって病院を回していくこと、病院としての機能を維持していくことなのです。そのためのプランを作っておきましょう、ということから病院BCPの話に繋がっていくわけです。

BCPの策定は事業継続つまり経営を続けるため

石井:BCPは病院もクリニックも、すべての医療機関が持つべきものでしょうか?

佐々木:そう思います。ただ、BCPは「計画書を作ること」が目的と思われがちですが、大事なのは「どうやったら自分たちは生き残れるのか?」「生き残って社会に貢献していくためにはどうすればいいのか?」ということをしっかり考えておく、ということです。地域の中では平時、一次、二次、三次の医療機関がそれぞれの役割を果たしています。どんな状況でもそれぞれの医療機関が「最低限守り抜きたい機能」を事前に決め情報共有できれば、災害時においても各医療機関の「守備範囲」をベースに連携し、地域の医療を回すことができます。
そもそもBCPというのは経営的な課題に向き合うためのものです。能登でも問題になっていますが、災害が起きて地域住民が遠隔地に避難し近隣に患者さんがいなくなれば、地域の医療機関は経営を維持できません。そのような事態への代替方法やバックアップを考えておこうということです。その意味では、プライベートセクターの医療機関ほどBCPを作っておいた方がいいのです。

コロナを機に生まれた連携の新しい前例がこれからの財産

石井:新型コロナウイルスの対応に迫られたときの、病院BCPの普及状況はどうだったのでしょう。

佐々木:東北大学病院は病院BCPの中で人的資源が不足した場合の想定もしており、自分たちが死守すべき業務が各病棟や各センターにおいて明らかでした。ごく簡単に言えば、入院している患者さんの命を死守する、ということです。東北大学病院は事前に考えていたことが生きたと言えると思います。一方で、地域全体として見れば、病院BCPの普及はまだまだだったと思います。

石井:医療連携という点で言えば、コロナをきっかけに様々な協働や連携ができた、というポジティブな面もあります。2020年3月に行政の主導により「新型コロナウイルス感染症対応病院長等会議」が開催されましたが、同年12月には、コロナ感染者の急増により、それまでは保健所が直接病院と行っていた陽性者の入院調整が回らなくなって、「宮城県新型コロナウイルス感染症医療調整本部」が立ち上がります。当時の東北大学病院院長の冨永悌二先生が本部長となり、私が副本部長となって実務責任者になりました。ここでも山内先生が「仲間を集めて一緒にやりましょう」と言ってくださって、佐々木先生含め災害医療の経験が豊富な人材をリクルートしチームを作りました。各方面のご理解やご協力を得て、病床を地域全体で回していくことができました。
この動きの中で良かったことのひとつは、病院長等会議によって情報が透明化されたことです。宮城県医師会や仙台市医師会とお互いの状況を共有したうえで「こういうかたちでやっていきます」と周知することでオーソライズされ、その後の調整がスムーズに捗るようになりました。宮城県医師会や仙台市医師会から「発熱外来などクリニックでできることはやりますよ」「ホテル支援も手伝いますよ」とご協力いただきましたし、東北医科薬科大学からはワクチン接種センター等のご支援をいただきました。看護協会からはホテル支援看護師を出していただきました。総力戦により地域の医療を回すことができたと思います。宮城県の医療連携体制がうまく構築された手応えを感じました。

山内:調整本部立ち上げの際、「宮城県と仙台市で一緒にやってもらわないと困る」という要望を私たちから伝えたこともあって、宮城県と仙台市による合同の調整本部ができました。行政同士のこの連携が生まれたことが非常に大きかったと感じています。いくら私たちがなにを言っても行政が「やる」と言ってくれなければ物事は進みませんし、行政がふたつあっては二度手間になってしまう。行政と行政の壁を超えてひとつになってくれたおかげでさまざまなことを一緒に進 めることができました。

佐々木:医療が行政と行政の橋渡しを担うことにもなったわけですね。

石井:行政の方たちがルールの策定や事務方のマンパワーの提供など大変な努力をしてくださいました。医療連携というのは医療人だけのものでも、病院間連携だけでもなく、行政も欠かすことができません。山内先生がおっしゃってくださったように、災害医療やクライシスマネジメントにおいてかつてないほど宮城県と仙台市がひとつになったことは、コロナをきっかけに生まれた医療連携の前例であり、大きな財産だと思います。

次の災害の時のためにそれぞれの医療機関が備えるべきこととは

石井:では、次の災害が来たらどうします?何が重要になってくるでしょう。

山内:コロナ対策においては医療調整本部が立ち上がるまで1年近く時間を要したので、またもし何か起きたら次はなるべく早い段階で病院長等会議や医療調整本部を立ち上げられると良いのではないでしょうか。

石井:そこは前例ができましたから、きっと次に生かされると思います。

佐々木:大きな災害が起これば、県外などから支援が来ることになるでしょうから、自分たちが助けてもらう側に立った時にどうするのか、受援の準備や計画を立てておくということが今後の課題になってきます。被災地でよく聞かれるのは「まさか自分たちが支援を受けることになるとは思わなかった」という言葉です。もし災害が起きて支援を受けることになったら何をすべきか、どの病院も想定しておくべきでしょう。

石井:それはクリニックも同様でしょうか?

佐々木 :同様です。被災したクリニックの機能維持には外部支援、とくにJMAT(日本医師会災害医療チーム)の受け入れが欠かせません。外部支援を効率的に受け入れクリニック機能を早期復旧させることが地域医療全体の早期復旧につながります。
今回の能登半島地震でもそうですが、基幹病院だけが災害対応していれば良い、というものではありません。一次・二次医療機関が機能してこそ三次医療機関も機能が果たせます。平時の医療の仕組みを災害時においても地域全体で回していくことが、やはり大切なのです。

石井:支援をどう受け、機能をどう維持するかを、医療機関それぞれに用意しておく、と。

佐々木:病院もクリニックも、単体で機能維持することはできません。BCPを作る時には、「どこにSOSを発信します」「どこと連携します」というようなことも記すことになります。その意味では、BCPの中にも医療連携が必ず入ってきます。

石井:3.11 のときには、被災した石巻市立病院の医療データを山形市立病院済生館がバックアップしていたことによって、流されてしまった石巻市立病院の患者さんたちのデータを復旧できた事例もありました。こういった情報面での連携も重要でしょうね。

佐々木:まさにそうだと思います。パーソナルヘルスレコードという、医療データを共有して利活用しましょうという話題も出てきていますし。

石井:人的リソースやモノだけでなく、情報も含めて、医療連携というのは非常に総合的なものだということですね。ありがとうございました。

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東北大学病院 総合地域医療教育支援部 部長
石井 正(いしい ただし)

1989年東北大学医学部卒業。公立気仙沼病院、岩手県立遠野病院を経て、2002年石巻赤十字病院第一外科部長、2007年同院医療社会事業部長。2012年10月から現職。総合診療科科長、漢方内科科長を兼任。
仙台市立病院 救命救急センター長
山内 聡(やまのうち さとし)

1996年東北大学医学部卒業。いわき市立総合磐城共立病院、東北大学病 院高度救命救急センターを経て、2014年同大学院医学系研究科外科病態学講座救急医学分野講師。2014年大崎市民病院救命救急センター救急診療部長、2020年より現職。
東北大学災害科学国際研究所 災害医学研究部門
災害医療国際協力学分野 准教授
佐々木 宏之(ささき ひろゆき)

1998年山形大学医学部卒業。山形県立中央病院 、東北労災病院、高萩協同病院を経て、2011年東北大学病院胃腸外科助教。2013年より東北大学災害科学国際研究所災害医療国際協力学助教、2019年より現職。

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