太宰治は、忘却は人間の救いと言ったが、それだって程度はある。
人の名前を忘れ、暗証番号を忘れ、立ち上がった瞬間やろうとしたことを忘れ、私たち中年には〝物忘霊(モノワスレイ)〟という霊が取り憑いている、自分たちは悪くないと、担当する番組でも同年代で慰めあった。
忘れることができず苦しい思いをすることもあるだろう。でも地獄の練習で完成させたピアノ曲がすぐ弾けなくなるとか、一日かけて覚えた資料の内容が本番で出てこないとか、新しい記憶が全く定着しないという現実もなかなか辛い。寄る年波に勝てず、脳も疲れているのだろう。
ただ、最近、朗読劇で舞台に立った時、なぜかスラスラと言葉が出てきたことがあった。台本も見ずに、観客を見つめ、記憶のままに語りつづける自分がいた。確かに長い時間かけて読み込んではいた。でも暗記した覚えもない。ならば私は一体あの時、言葉をどこから取り出していたのだろう。
この先、記憶が弱体化することに不安はある。でも時々こういう奇跡が起こるなら、メモリを増やし続けることは無駄ではないと思えるのだ。
堀井 美香
秋田県生まれ。TBSアナウンサーとして27年間勤めた後、現在はフリーランスとして、ナレーションや、メタウォータープレゼンツ「水音スケッチ」を担当。自身の朗読会も各地で好評を得ている。著書『一旦、退社。~50歳からの独立日記』(大和書房)が発売中。
※東北大学病院広報誌「hesso」37号(2023年2月28日発行)より転載